スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

3月, 2017の投稿を表示しています

美束にあった信仰の話。教如堂

美束にあった信仰の話。教如堂。  うちら、子どものころにね、お宮で遊んでるとね、こんな幅の脚絆をね、ぐるぐるに巻いてね。ダーン、ダーンとと杖ついてね。何人としらんが、来るんやで。そいで母親に、  「あのおばあさん、これからどこに行くの」と言うとね。「教如さんに参りに行くんや」と言うたわ。  教如さんの岩屋 ※1 があってね、お堂もあったんやね。堰堤の山道の上、そこの横に平があってね、教如堂があった。岩屋の下にあってね。それを、壊してね。お堂壊して持ったんやで。そいで、農業協同組合建てた。組合が美束だけあった。いまのお地蔵さんの横にね。美束農業協同組合 ※2 。      昔、露天で焼くさんまいがあったの。死んだ人を。せんだんぎする、若い人が。せんだんぎってね、木を交差して組んで、死骸をひきづりあげてね焼いた。  ここの高い所から、お葬式の日に火が見えて気持ち悪かった。子どものころ、火の番。火の番とはね、火の用心っていうの。燃えてる日に来なん、ならんなら、さびしいて、さびしいて。3人くらいで、中学の人と、「火の用心、火の用心」って歩いたの夕方。そしたら、燃えてるやろ、その火が。この細い道、それから尾西まで降りていくんやけど、それがいややった。  ここからちょっといったところに、墓地があるの。そこには墓がつくってあるし、小さい子が亡くなると昔は埋めたね。私が子どもの時には親と廻る。石でね、ここに埋けたとか、言ってね。おそなえさ、そなえたり、ともらったね。そこの、ちょっとした平に、米軍の死んだ人も一時埋めといたと。  虎子で飛行機落ちてね。墓場に一時期埋めといた。米軍やがな。日本人ではない。米軍が死んだもんでな。兄が言うにはアメリカ兵が美束の宿に泊まっておったと。そのままにいけといた。 うちにもあったんよ。「これ何」言ったら、飛行機のかけらや、と。拾いにいったんやもんな。3つ上の兄がね、飛行機が来ると、戦争終わってた、びーにじゅうくう、びーにじゅうくう、ってね。通る飛行機をね。そう言うとったよ。私は戦争が終わってから生まれた。  土曜日になると、「これから掃除やる、箒もって来いっ」ていて、白山神社の掃除を夕方になるとみんなで。お宮さんの掃除した。「遊んでるのだから、掃除しろ」って、上の子が掃除するから、私らは箒とりに行った。

中山観音寺 3月第2日曜日の大般若さんの 聞き取り

 岐阜県揖斐郡揖斐川町春日中山観音寺は江戸時代は大垣藩が再興、関ケ原の戦いでは小西行長を匿った歴史ある曹洞宗の寺である。   観音寺は山間の中山集落の上方、山間の急な石段を上った場所にある。社叢は深く、「お宮さんからの風でいつも寒いんじゃ」と言われたことを思い出す。  創建は養和元年(1181)で、関ケ原の合戦時には荒廃していたものの、小西行長を菩提をともらうために、さらに山を越えた集落である美束種本より、十一面千手観音像と大日如来、釈迦如来像仏像三体を譲り受けたが、十一面千手観音像にご利益があった。  村自体も源平の落人伝説、さらには壬申の乱の落人伝説をもち、村の由来は1500年さかのぼる。いまは、岐阜県に位置するが、村の先祖は、山間部の中から、中山という集落をつくったのである。   しかし、その集落も17戸になり、80歳前後の村人が寺を守ろうと、花祭り、御汁講、施餓鬼と行事が行われている。  なかでも人を集めるのが大般若だ。村の人は「だいはんにゃさん」と呼ぶが、寺の守である宮内さんによれば「なんでも願いが叶うありがたいお経を読む日」である。  村人は2月から準備をする。2月末日は小西行長をともらう小西神社のお祭りがあり、さらにの中の神社かあ寺におり、村の人はりんとうを磨き、寺を飾り付け、経典を点検する。 この日は、掃除するりんとうが並べてあった。 小西神社のお祭りが終わると、お寺に行く   りんとう磨き 女性たちは、数週間をかけて、この日のための食事の用意をする。食事は山のものである、白和え、蕗みそ。大根。全てが山のものである。人数分つめる。今年は雪がひどかったが、それでも何とか蕗のとうを拾ってきた。 「先代のおっさんは、それはそれは厳しい人じゃった」という治子さん。礼儀作法を学校さながらに厳しく寺から教わった。   「昔は、食べ物がなかった。五穀豊穣とかね。祈ったんですよ」と宮内さんから、教わる。僧侶の読経が響く。    「昔はね、出店が出ておった」と言うのは、四井(83)さんだ。  「おっさんの声が大きいてね。外まで聞こえたと。俺ら、青年団でね。礼儀忘れると、怒られたもんだ

栃餅づくり 大雪の降った日 

大雪のある日、春日村で栃餅づくりを見学。  熊の足跡を調べる御大と中坊 「そんなに大きな熊じゃないぞ」と御大。   さて、栃餅づくりを見学。 以上聞き取り。 升に盛り上げて三升の栃の実。それに対し、水分をひたひたと水をい入れ。 昔の人は、栃一升に木の灰を一升。  「分量よりも一升余分に杯を入れなければだめだ」ということを私らのおじいは言っていたが、今日は三升五合。灰はすりきり。栃は盛り上げて測る。 それを入れてごとごと煮る。入れて湯が沸いたら混ぜてね。混ぜないと灰ばかりが下に沈んでしまう。11時ごろからやったのでいまは3時間ぐらい経った。栃を入れたら苦土だと火をさげる。こうも燃やしておったら、焦げてしまう。  冷めんようにしておくのが大事。 上の水がしょうゆみたい色になると、とおっている(浸透している)と思う。栃に灰がとおってると思う。浸透すると灰汁を抜いて1週間(3、4日)。すぐさますと浸透せん。中が白いと通っていない。全部が同じ色に。  通っていないときは、混ぜるか灰を足す。灰は、里芋の葉を乾かしたもの。おばあに教えてもらった。里芋の葉ね。知らんやろ。今日は1升足す。入れ過ぎてもいかん。  つく前に熱い湯に一晩。昔の人は水に2晩。  栃を剥くのが大変なんやって。ギュッとやってむく。大変、大変、トチクジリ、この辺りではガジリとよぶ。三代使っているもの。大変だけど(だんなさんもやってくれる)。むくのな。    川に入れて水にさらす。泡が出る。袋のままふる。泡がでなくなるまで1週間。 長すぎても栃が減るので長すぎてもいかん。  栃がひたひたとする水。今日、測ったら5リットルあった。  灰を入れる前にも栃はあっためておくとよい。  分量わからない時に、灰をたくさん入れてみて、餅をついた。ピリーとっして。内臓悪うなると思って。入れすぎも良くないな。おばあに聞いたら、栃一升、灰一升。水も栃が隠れるくらい。  こんにゃくも同じ。飴色になった色になった木の灰汁でつくるとおいしい。灰をたいて、上澄みをとってつくってな。よい灰汁でつくるとおいしい。こんにゃく1キロやったら、灰汁水は3リットルから4リットル。ねっとって灰水をまぜながらやると、かたまってくる。こんにゃくの弾力がつたわってくる