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耕作放棄地

美束の耕作放棄地の見学 耕作放棄地があると案内してくれた。水田として使用されていましたが、5年程使用されていないので、始めに一反3万5000円がかかりますが、その後、借地料などはありません。何か良い方法はないものかと。ちなみに、小生は農業をやったことがないのでご案内のみ。 裏の畑にネギを植えました。自己流、どうなることやら。 脱線しましたが、この夜には鹿とタヌキとウサギが。家の周囲には、あけび、ゆず、柿が。柿は渋柿ではなく、特に、クルミが豊作。 立派な滝が。小白谷です。 美束の民家を取り壊すということで、ふすまをくださると言うので行ってきました。 機織り、しなのきの紐、朝、民具の宝庫でした。 これは、寝具入れ、長持ちです。 機織機 麻の束を頂いてきた。 シナノキでつくった紐です。
2月1日より2週間、エプサイトギャラリーで個展をします。 新宿の三井ビルの1階になります。新宿西口から歩く歩道都庁に向かう途中にあります。 DMができましたので、お知らせいたします。ご来場くださいませ。 https://www.epson.jp/katsuyou/photo/taiken/epsite/event/gallery2/result/new_selection_2018spring.htm

木地師のふるさと 君が畑へ

 春日の小宮神で木地師の掛け軸を見せていただいたのが春の始まりだった。木地師とは、山から山へと木地を求めて移動する人々。しかし、木地師が移動した山にはすでに人の村がある。  「やたら木を伐ってしまうで、恨まれて、恨まれて」    藤原さんは、木地師の祖先が定着する過程であった苦労のことをお聞きした。その一つがお寺の話で、明治まで自分の寺を持つことができなかった人たちは、明治になって、自分の寺を手に入れる。明治の話だから、そう遠いことではない。  祖先は、木地師は惟喬親王に親王にお仕えした藤原定勝ということだ。御存じだとは思うが、惟喬親王は伝説の人物。実際には、 文徳天皇の第一皇子である。 皇太子に弟(清和天皇)が立ったところで、身の危険を感じ京都から逃れ、滋賀県で亡くなっている。伝説では山中にたどりき、轆轤を生み出したことになっているが、それ以前にも、当然に轆轤の技術はあった。  流浪の皇子ということで伝説の題材になったのだろう。 親王との関係を記す掛け軸が藤原家にあるが、集落には石碑もたっている。これは折口信夫が、先祖の墓と言ったぐらいがいいだろうとアドバイスを送っている。  伝説では先祖は、始めは古屋に入る。しかし、そこは雪が深い。小宮神に土地があったので、そこに住み着いたことになっている。 お寺の話は、また後に書くことにしよう。  今回は、木地師の発生の地である君ケ畑に行った。君ケ畑は滋賀県にある。ちなみに春日は岐阜県にあっても滋賀県境の村である。  君ケ畑に向かうのに一冊の本を携えた。君ケ畑について書いてある白洲正子の『近江山河抄』である。君ケ畑は「鈴鹿の流れ星」に出て来る。君ケ畑は白洲の『隠れ里』でも紹介しているが、鈴鹿山脈で十一面観音を追いながら、その帰りに北上し小椋谷の君ケ畑に寄ったのものである。その時の紀行文が自分は好きなのである。 白洲は、木地師の祖 惟喬親王について このように書いている。 「鈴鹿山脈の西側は亀山市で日本武尊の遺跡が至るところに見出されるが、それと呼応するように、近江の側に惟喬伝説が現れるのは、両者の間に何か関係がありそうな気がする」  日本武尊も親王も確かに敗者の話である。貴種が流れる話である。しかし、私の世代では日本武尊や有名なところでは源義経は知っても 惟喬親王は知らない。  全国の木地師の

麻畑 麻蒸場 美束

麻畑 山口保さん  麻はドクドク機で織った。ドクドクチャランと音がするので、ドクドク機という。伊勢湾台風で川に流してしまった。    落合橋をいって3軒ばか家がある折本の上にね40人が所有している麻畑があった。この集落でそこに畑がないのは貧乏人じゃ。それほど貴重だった。この間、いったら、猪がほって穴だらけ。  麻の種を蒔くのは大体4月のしまい、5月のはじめ。8月上旬には収穫する。  麻は2m50ばかりなりよった。その集落の全域が誰一人作らないものはいない。一面、アサバタで子供のころはかくれんぼ。喧嘩して麻を蹴飛ばしては歩くやろ。よう叱られたもんだ、悪いことをすると。  直径20センチの束に刈り取る。そのまま麻蒸場(あさむしば)にもっていく。麻蒸場は集落に5、6カ所。5人ぐらいで組んで竈をつくる。おかまの中に麻をいっぱい入れて、蓋にするために、桶をひっくり返してぼとんとかぶせる。茹でるんじゃなくて蒸すんだよ。麻が2メートルあるので、地上から三メートルぐらいまで高いんだ。  なんで、指定の場所があったかと言うと、大木があるわけで、滑車をつけて人間さが引っ張り上げて。大きな木があるとこで、枝に滑車をつるすんで、枝を大切にしたもんだ。クレーンでやると同じ考え。  多い人は一日に何杯もやる。大体1日2杯ぐらい。それまた、条件があってね。近くに水が流れていなければ。できたやつを水で冷やさなければならない。川をせきとめて、水にふやかす場所がなくてはならない。だから、木があって、よりつきがよくて、水があるということで、あさむしば。  家庭へ持って帰って台所で。中の木を麻木っていうんだ。真っ白な奇麗なもんだ。もとの方をちょこっと皮むいて、指でひいてむくとしゅーっと。おもしろがって子どものころ、お庭までとんでいくようなね。しゅーっと。そうやって剥いたやつを、乾燥にして、かりかりにしておく。    表面は繊維にならないで、それをしごき、結局、麻の皮をむいて、半分割れてるもんじゃで、それを水にひやけしておいて、柔らかくなったものを、汚いのをとって、きれいにして、切れるほどではないが鉄でくくくと汚いところをとる。元の方は、とがるほど削る。根は大事な繊維のとこまでとるぐらい。  ひもでくくってずらっと乾燥させる。1カ月、寒中にさらす。どこの過程でも

がん桶

がん桶  山口 保 さん    がん桶って、紙切りがおって、立派に紙を切って飾る。  結局、座って葬って、神輿みたいに。火葬場に持ってった。 おいぼう、甥っ子4人でおってった。 火葬場がないころは、せんだんぎって、割れ木を積んで。せんだんぎにする。 焼け出すと、ぴゅーっと伸びる。 暴れる人にになると、焚き物積んだどころから落ちるわね。 こおれは、だめだって、ことで、みんなで死んだ人を、ひきあげる。 台から落ちた。にょーって。 どよめく。生きりかえしてしまうんで、気持ち悪いで、みんな逃げた。 酒飲んで、酒飲んで、焼いた。   甥っ子が焼くようになっとった。おじさんとかおばさんとかを焼く。4人。 兄弟でなけりゃ、また、他の兄弟から来て焼いて。 おばさんを焼いたときは、おんなじ兄弟ばっかで四人で焼いた。今夜飲もうかや。 気持ちよくないで、酒飲もかいと。俺ら4人で日本酒二升。それから、ビールを五、六本。みんなあきれて。まだ、足らんもんで。 酒飲んで酒飲んで。酒飲んでやらんと、きたねえし。焼いとって臭いし。 材木をタテ、ヨコに1メートル、2、30積んで。その上に箱に乗せたおじさんとおばさんをちょこんと載せて。そのうちに、上のがんおけがはぜて。にょーって。おい、暴れたぞお。落ちてまうと、焼けせんで。みんなで、棒で、おい、やって。 おいぼうは兄弟の上から上から四人とられるもんで、上だからやらなあかん。下の方で番が来んで、やったことないで、やってみたいという人もいた。 重油のバーナーのセールスもやっ焼けんで来てくれ、というと、素人ばっかでやるもんで、火をつけたらはぜた、と。そりゃそうだ。バーナーあけて火つけんもんで。煙ばっかで。そんでも、重油だらけで、火をつけたら、それははぜるわな。死んでまうぞ、って怒った。 どんだけやらせられたか。

50年前の山男 

滋賀県の高島郡に何十年前、三十歳代に行っておった。滋賀県の造林公社に、公社が用意してくれた古寺に寝泊まりしとった。美束二人で行ったっところに、五人ぐらい中山の人が入り込んできて、お堂の中に寝たんだ。みんな。賑わしなったでよろこんで。五時には仕事に行く。   猿の大群がくると、猿ぼうかやって言うと、両方でぼうる。100匹ぐらいの群れが来よる。木で倒す。地元の人が、そんなことをしたら、絶対あかん、絶対あかんと。 それがね。山肌でね、仕事をしとると来るんじゃ。1週間おきに来る。1週間経ったで猿がくるぜや、と言うと、ほらほら来た来た鳴きだしたって言うと大体一週間でまわって歩く。 仕事してる上に来るとね、木をゆさぶったりなんだりして悪さしてくるの。そのかわり俺ら仕事してる下へ来るとね。そこそこっと行ってまう。そりゃ、下ならぶつけられると。上ならぶつけられないということわかっとって。夕方に来ると、今夜はここで寝るなってわかる。行かへん。朝いってみるとちゃんとおる。昼間きたやつは、おらん。夕方来たやつは、朝行ってみるとちゃんとおる。猿は人間さんと同じ夜行性じゃないな。 上に来たときは、騒いで、騒いで木をゆさぶって。100匹ぐらいの群れが来るんだ。 白谷のスキー場の真向かいやっとったんじゃ。 あっちの人は親切だった。遠いところを仕事へ来て下さったんやで。ビールを5本ぐらいもってね区長さん、来てくれた。お寺に泊まってると、お風呂に入ってくださいと言ってくれる。行くのいやなんやね。若いで。じゃんけんして負けたものが行く。沸かしてくれるんやね。でも、若いときはいやなもの。ジャンケンしては行ったもんだ。三年ぐらい行った。 堅田温泉の温泉で遊びにいった。あんな、金もうけたことはない。1日4万円、50年も60年も前にその金額。 お堂に寝とると、仏さんが、見るやろ、二人で寝とると、仏さんが水晶玉かなんか入れてる、立仏がギローって、懐中電灯で照らすと、気持ち悪くて気持ち悪くて。   下刈りで木を伐って、県事務所が良い仕事やるんだで喜んでくれた。小宮神、川合からも何十人と。春に呼び出されていったら、去年、植林したところ怒られると思ったら、お聞きしたい、これお目玉くらうと思って、粗末の植えしたって言われへん。 おそるおそるしゃべる。何千本ってうえた檜が枯れてまったが、

木地屋のはなし

 折口信夫『被差別の民俗学』(河出書房新社)の「木地屋のはなし」には、春日村の米神が登場する。米神とは春日村の小宮神のことである。十数年前に、小宮神の木地屋さんから系図を鑑定してくれと頼まれていた折口が、十数年後にやっと小宮神を訪れるという話だ。「都合がついたら 惟喬親王の御陵を見に来てくれ」と頼まれている。 「切り立った崖の狭間に出来ている村落で、そこに猟師村のように家がごちゃごちゃ並んでおり、その中に本家というのが三軒程あるので、惟喬親王の御陵といっているのは、実は、その本家の先祖らしいのです。とにかく、私どもの知識では、何の根拠もないということがはっきり呑みこめましたので、これは「小野宮御陵伝説地」というくらいならよいかもしれないが、それ以上のことをいうのはよくないだろうと申しておきました。尚、ここの木地屋は、この第二図、即ち、金龍寺から出している方を掛けているので、採色をした極新しいものでした。」  折口は小宮神の木地屋から、系図の鑑定を頼まれ、系図を返すついでに、小宮神を訪れたのである。親王の御陵は本家の先祖らしい、 惟喬親王 伝説の地くらいならよいかもしれないと言っておいた、とある。   木地師は木から器をつくる職業だ。山の木を伐ってつくるため、山から山を渡って歩く定住しない生活が漂白民のようにも考えられ、ノスタルジックに語られることも多い。しかし、折口が「詩的に考えると、大昔から山に居った一種の漂泊民が、まだ、生活を改めないでいたように考えられるのであるが、そこまで考えるのはどうかと思います。とにかく、昔は、幾度も氏子狩り(氏子をつきとめて戸籍に登録)ということを致しております。ちょうど、山に棲む動物を探すように、氏子をつきとめて、戸籍に登録するので、こんな点から考えると、昔の民生もそうだらしのないものではなかったことがわかります。」と述べているように、民生は幾度も氏子狩りをし、山に棲む動物をさがすように戸籍を登録。木地師も氏子であることを利用して、関所を超えた。全国の木地師は二つの神社の氏子となっており、折口の言葉を借りれば、民生が行き届いた証拠であるが、祭神の一つが、小宮神の 惟喬親王である。器をつくるのに必要な轆轤を発明されたということで神となった(もう一つの祭神は筒井八幡である)。 惟喬親王は 清和天皇の兄弟。父は