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美束 応仁の乱のころ




今日は、応仁の乱のころの美束を考えてみたい思います。

現在の揖斐川町の春日美束の美束尾西。美束は春日の中でも最も奥の集落。その美束のなかでバスで最終の停留所からも歩いて20分ぐらいの集落尾西。
しかし、「最も奥」と言ってしまうのは大垣を起点に考える現代の感覚なのでしょうか。滋賀県から見れば、滋賀県に最も近い集落であり、教如上人をはじめ、伝説にことかかない地域です。

この地域には千疋城や寺院があったということを聞いていましたが、城跡調査家の熊澤喜三郎の示した千疋城の地図を所有している山口氏と駒月氏の案内のもと、地域の文化保存に取り組む有志も交えて城跡にのぼってきました。

この地域に誰が住んでいたのか。どの時代の人だったのか。山口氏が持っていた大久保甚一氏の執筆した「美濃国池田郡小佐井村『千疋城』跡」が明らかにしてくれました。



大久保氏は「竹中家譜」から城の住人を明らかにしていますが、竹中家譜から辿ることができるのは初代である竹中信朝(尾塞次郎左衛門)。その孫である竹中頼久が土岐氏に従い1542年に大桑城の戦いで戦死し、文字の歴史は途絶えることになります。

大久保氏は竹中信朝が居住してから、この地域は1542年までの100年栄えていたと書いていますが、1542年とは戦国時代の最中です。大桑城の戦いは大河ドラマの麒麟が来るにも出てきましたが、国取物語にもでてくるようです。後者は知りません。

大久保氏の説明は

「濃州池田郡小佐井村云云、兄弟ハ岩手遠江守重盛の子」

 との一文も紹介しています。 

 名前の尾塞の塞「さい」は要塞ということで、塞の意味を持っていますが、大久保氏は「要塞は国境・辺境の地で、けわしい土地とも解釈できる尾根の所に住んでいた」と書いていますが、山城は見張りや緊急の場所であり、尾根の所に住んでいたというより、住まいはふもとにあったと私には思われます。
 
 
 孫竹中頼久が土岐氏に従い1542年に大桑城の戦いで戦死するまで三代にわたり、この地域は100年栄えていたと書いています。
 
初代は「濃州池田郡小佐井村云云、兄弟ハ岩手遠江守重盛の子」

 重盛は岩手弾正遠江守。つまり岩手城主で生年月日は1394~1444年。 
 また、信朝の兄の重久は1504年に68歳で亡くなっていますので、竹中信朝も1400年代半ばに生まれていると思われ、すると、1400年後半には、千疋に居住していると考えられます。

 兄、重久の母は8代目土岐成康に仕え、応仁の乱では美濃の諸氏が土岐氏に従っており、その諸氏の一つと考えられており、尾西の山城も竹中家の飛び地として、国境警備にあたっていたと考えられています。
 なお、竹中氏の子は船岡山の合戦(1511)で戦死。初代の孫頼久も土岐頼芸に仕え、大桑城で43歳で亡くなっています。1542年のこと、まさに戦国時代まっただなかです。

 ざっくり言って、千疋とは土岐氏に従った諸氏の一人である竹中氏が応仁の乱からはじまる戦国時代のころに3代にわたって住んでいた土地ということになります。
 
 大久保氏の論文から尾西と竹中氏の関係を紹介しましたが、竹中氏亡き後の様子はわかりません。この地には、大量の五輪塔が見つかっています。

 土地の人は、おばあさんから、あそこの土地を使ってはならないとの言い伝えを受け継いでいた。このあたりを掘ると、大量の五輪塔が出来るといいます。

 現在の尾西は最奥の地と言いましたが、美束地区は教如上人の伝説も残り、立派な寺院も数多くあります。要衝の地だったのでしょう。

 山城跡にのぼってみましたが、伊吹山、火越峠が望めるまさに要塞でありました。

  
 熊の爪痕りましたので、登山要注意です。

 

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