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5月, 2021の投稿を表示しています
 地名 恋折峠   美束から中山への道は恋折峠(こより峠)を超える。地蔵様はみちわけ地蔵というのは、中山の四井国正さんだ。  「地蔵は道分地蔵じゃないかと思う。お道を、右へ本道、左を山道。左へ行くと山の中に入ってしまうという。そんな案内。恋折峠にある地蔵は美束へいく道と山に入っていく道を分けている」と中山の四井さん。「その地蔵を頼って旅した人がおるわけで」  「俺ら子供のころは花があるとちぎって、地蔵さんに備えた。なんでもかんでも、供えておけと」。  恋折峠は、四井さんの郵便屋さんお父さんも通った。香六、小宮神配って、こうもり山を通って寺本。尾西めぐって、それから、恋折越えて中山に戻って。それから古屋行って郵便局へ。これで1日。時間があるときは六合も配った。  道分地蔵は、集落の最後にも、廣澤にもある。 道分地蔵がなければ、迷ってしまう。「小学生のころだか、禿山から漁師が骨を拾ってきたのを見た。行方不明になった人で、着物かなんか知らんが、破れた着物を広げて見せた人があった。山に迷ったんじゃないやろか。禿山で。中山の墓地、杉の木の下に埋めた。  恋折峠には百日紅があり、お地蔵さんがある。降りないと、山に入っていってしまう。山はなすび平に続く。   中山へは裸ろうそくで行くんだ。裸ろうそくって、ふところに入れてと聞いたのは美束。恋折って、恋が折れたからだよ。そんな話なんで、誰から聞いたのか名前は伏せておこう。 「てつゆきやま、もんきちやま、じゅうきちやま、いさおやま、げんしろうやま、こより峠」 美束側の名前だ。お寺の山もある。  中山と美束と、どっちが峠かと争って、30人も40人も行って争った。水の流れで境を決めた。50、60年も前の話。お寺の山が境だ。  地蔵が倒れたのでおこした。水で洗わな。もっと、下にあったと思う。山の境がわからなくなったって、それは俺らが死んだあとのことだ。山に帰っていくだけ。
  焼き畑 1 「8月に雪が降ったってのを知っているか」   『天保七年八月五日雪降り五穀稔らず同八年大飢饉にて餓死するもの道路に満てると云ふ。寺本村七十餓死せりと云ふ。 天保8年米相場百文に三十八尺なり。大垣藩中より米一切を買うことできざりし。金を蓄えて死セシ多数あり。米の相場は百文で4号8尺。』(西濃春日村古今ノ事蹟明細記) 「火山の噴火だと思う」と駒月さんは言った。その時期、浅間山が噴火している。雪は灰かもしれない。  天保7年1837年。江戸後期の大飢饉で、寺本だけでも70人 が死んだ。 「お寺さんが、よう供養してくれた、その時の恩があるよ」と山口さん。  それから60年後の1897年。明治政府は焼畑を禁じる。禁令がどこまで、浸透していたかはわからない。古老には、焼き畑の記録がある。  一年目はヒエ、二年目はアワ、三年目はエーを蒔いた。エーとは荏胡麻のこと。  焼畑をムツシと言う。  春日には、焼き畑をしていたころの、歌があり、昭和初期まで歌われていた(美束の民謡には、生涯無い(しょうがいない)という民謡があり稗・粟。胡麻、荏を採り、主食にしていた頃の哀歌と言う(駒月氏収録))。 その一、 しょうがいない、しょうがいないと言うたこてゃないが今年しゃしょうがいあのあたり年しょうがいない その二 胡麻えがら三ばからげて四わ炊いた。 三ばからげて四わ炊いた。  山口氏によると、焼畑は3年でまわす。ひえ、あわ、えが3年目だ。そばもまく。1年に2回。放っておいても薬草が育つ。  春日村史によれば、共有林を個人に分割したため、焼畑が不可能になったこともあるが、個人では行われていたようである。  ムツシという地名が残っている、春日から粕川上流に向かうと品又谷、大平谷に分かれる。王ムツシが大平に、繁ムツシが品又にある。ナギ、ソウリも焼き畑を示す言葉だ。  昭和12年(1937年)。大きな開墾が長者平付近で行われる。春日村史には、「おりから日華事変ならびに第二次世界大戦のため、農業の資材も機械もなく、その上、働き盛りの若者は戦地や軍需工場に出て、農家の労力は極端に不足した。その中で、もっこ・つるはし等の原始的作業法で汗とほこりにまみれ、食料増産のため開墾した」。  大開墾の地は、村から離れ1里。長者平といい、壬申の乱の落ち武者伝説を持つが、いまの、景観のもとができたのが、
 ショウガイナ  美束の博物館で灯篭祭りについての企画展が行われた。展示されいたショウガイナは、しょうがいになったり、しょんがいな、になったり、しょんがえになったりする。  囃子言葉として使われているのは、全国だけではない。同じ美束の盆踊りの記録にも「しょうがいな」が踊られたとある。  美束の駒月作弘氏の記録。  「美束の民謡には生涯無い(しょうがいな)という民謡がある。胡麻柄、えがらが最も古くから唄われ先人達が焼畑を作り、稗・粟・胡麻・えを採り主食としていた頃の哀歌である。 其の一節  しょうがいないしょうがいないと言うたことないが今年しゃしょうがいないのあたり年しょうがいな(世の中が豊作をよろこんだ歌) 其の二節  胡麻柄えがら三ばからげて四わ炊いた  三ばからげて四わ炊いた。  「年暮れ近く寒くなってからの焼き畑仕事の哀歌と思われる」との分析。 「その後、よそやま(村外の山)へ出稼ぎに行くようになり(大方は炭焼き)、根尾・方面からほっそれ民謡が入った。  発心寺・善照師匠が京都東本願寺へご奉公お勤めに行かれた時にも、盆踊りを伝えた。紡績工場で盆踊りを習ってきた少女たちも郡上節、高山音頭を習ってきた。  「昭和12年品事変勃発。続いて第二次大戦となり青年たちは戦場へ出征。盆踊りは中止され敗戦後昭和21年、食料不足に苦しむなか、すこしばかりの憩いにと盆踊りを再開。その年の踊りは、ショウガイナ、嗚呼盆わな、高山音頭、郡上節。翌年からは拡声器を揖斐町の大野ラジオ店から借りて流行りの炭坑節、その翌年はトンコ節とだんだんとテンポの速い流行ものを追うようになり、昭和初期まで流行った。」  「神社のお庭に花輪を下げ、音頭とる人は花輪の真ん中で蛇の目の傘をさして若い男女2人で踊っていた姿が夢のような記憶に残っている。それは著者70年前のこととなった。」との記録も美しい。  盆踊りをを踊りながら、この世の厳しさを忘れる踊りとして書いたものに、柳田國男の清光館哀史がある。  「雪国の春」に収録され、柳田1920年、1926年と、三陸海岸の漁村、小子内を訪れた時の記録である。  「おとうさん。今まで旅行のうちで、一番わるかった宿屋はどこ。そうさな。別に悪いというわけでもないが、九戸の小子内の清光館などは、かなり小さくて黒かったね。」から始まる記録は教科書にも載っている有名なものだ。
 地名 寺谷 不動の滝 大吹はお天王さんから行った谷。 大原林道の行き止まりは昔、茅場があったけど、いまはありゃせん。雑木やら杉やら植えている。   田んぼの中歩いていってね。大きな梨があってね。おじさんが、とってくれた。    大原谷の上にいらす谷ってのもある。こやん谷も。 砂小畑はならん谷の奥。板立、つくり道。 龍若はお天皇さんの下、スキー場の谷が蝮畑。まむしばたの反対がろくほら。 あなくぐりは上手に歩かんとならんところ。曽番谷の下。 さすら谷は曽播谷の上。板立はならん谷の下やでな。   丈夫平はスキー場の上。丈夫平と何やらの滝)野営場の奥の滝、少々渕)はつながってるもんで、娘の時、一人で行ってね。 渡瀬で顔洗ったり何らしてきたら、おじいさんに叱られた。   寺谷。字は別所。 寺谷から上にはいかいいかい石があってね。そこを水が流れとるよ。 お経さん読んで参ったりしたら、えーっとよけい落ちるような気がした。 寺谷の奥の方やわ。雪あるのにお母さんが滝にうたれに行って装束着て、ぬれた足袋はいて、 すぐ降りて来て、びちゃびちゃになって、飛び降りてきた。風呂沸かしてね。   かぐらはここから橋渡るとかぐらだけど。姫なしは、かぐらってとこ。広い田んぼがあるのが姫なし。 たとらだにには、栃の木あるけどね。ならん、栃の木だ。   曽幡谷の下があなくぐり。さすら谷は曽幡谷より上。
 蚕で川が白い おじいさんは賢い人だから人の家の蚕を見て歩いた。 中山なんか、蚕のために建てた家だ。 二階が生活の場で、一階が蚕を飼う場所。 暖を炭で取った。蚕のために。 炭は炭酸ガスが出る。青い灯がでる。 蚕がじょうぞくになると、仕事をせんようになった。 じょうぞく、これから繭をつくるところで、仕事をせんようになった。新しい家を建てたら、空気が入らんの。頭がいかれてまって。 長谷川が蚕で白くなった。蚕をもって流すもんで。 うちばっかりじゃあらせん。あかんうちは全部流すやろ。 しんくろ渕が白かった。