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大平八滝 産鉄の地名


このページの閲覧数が多いので、補足しておきたいと思う。
「古代春日村の修験と鉄」という文章を紹介している。森の国通信というものに書かれている。詳細は↓ しかし、春日に鉄の地名があるという証拠となっている本、地名を掘る―鉱山・鉱物からの考察 | 小田 治 を取り寄せてみたが、全てではないにしろ、そのような記述が見つからないことが多い。著者の思い入れがあらわれた論文なのだろうと流れてはいたが、閲覧者が多いので、注意点を記しておきたい。



20年前、春日村にある森の文化博物館が発行している森の国通信というのがあり、そこに「古代春日村の修験と鉄」と題して当時の大垣女子短期大学客員教授で文学博士で哲学博士の吉田幸平氏が執筆していた。
1997年11月27日号は『地名を掘る』から、春日村の地名を調べたもので、美束周辺の地名は製鉄関連の地名であるとある。



なお、この吉田教授についてネットで検索してみた。大正8年生まれとのこと。シベリア捕虜の思想戦という本を出版されている。

地図は「古代春日村の修験と鉄」(『森の国通信』1997・11・27)より

鍋倉山 たたらを精製した山
赤崩谷 鉄土の赤い土の赤鉄鉱が出た谷
糠塚 砂鉄を採集、糠は砂鉄の意、また金・銀もいう
糠塚とはごき塚のことか






















安土への道。
大吹 大型のたたらで鉄をふいた製鉄師のいたところ
銅谷 銅を採掘
龍若 龍、蛇は鉄霊。龍は中国の南、汎太平洋よりの伝説
金倉谷 鉄を刳った谷。刳は、鉄網かなにかで漉したところ。
上砂子畑・砂小畑(しゃこばた) 砂は砂金、砂鉄など砂状の鉱物の意。子は粉である。
穴栗田 栗を刳と解すると穴場は鉱区の鉄穴を刳いだような谷の鉱区
蝮谷 蝮は古語でたじひと読む。たじは丹(たん)と読み、すなわち丹生で、水銀を産出した所。金小田 鉄の採掘の鉱区。田は鉱山、鉱区をいう。小は小波(さざなみ)のように「ササ」と読む。「ササ」は黄金の鉄をいう。
金山平 鉱山が繁栄していたところ
別所 鉱山労働者の集落で寺院に従属しない修験者や聖が含まれた。
安土 海神族が定住していたところ、安曇族(秦氏族)

種本
吹谷 朱砂を意味する
鈴谷 錫の採掘、亜鉛とともに出てくる
般若谷 丹生を意味する。
千疋 疋は日置で鍛冶のこと。多くの鍛冶屋がいたところ
鬼頃 朱砂のでる黄金のところ
白川・小白川 白または白銀または白銅の鉱区があったところ
種本 種は鉱山の言葉で鉱石のこと
鬼洞 鬼の棲息地で、鉱山では砂金を含む朱砂で黄金であろう。

中の坪地区
中倉 マンガンの鉱山。中の字は胎、また倉の字は刳に通じると言う。
餅谷 水によって角がなく、丸くなった鉄鋼石が出た谷。昔、教如上人が敵に追われ、揖斐から春日へ逃げ込んだ。上ケ流を通った時、裸足であったので踏んだ岩に足跡がつき、天狗山を越えて美束に落ち着かれた。上人が来られたことは山中に伝わり、村人は食べ物がなかろうとお餅を運んだ。ところが、あまりにたくさんあったので、食べきれず、残りを岩の上においた。そうすると、それが固まって餅の形をした岩になってしまった。それで今は、その岩に祠をお祭りしてあるということである。餅は鉱物で鉄鉱石の原鉱が流れて下へ行く間に摩擦で角がとれて丸餅のようになった鉄原石で、土中に横に丸石が並んでいる。
丸石を餅石という。この餅は黒い石が多く、黒餅。餅をおいたような岩というのは、この餅石の並んだ物を見たのではないだろうか。たたらでは、この丸石のままでは使用できないので壊して砂鉄のように粉にする必要があるが運ぶのが便利で重宝がられた。
餅石は花崗岩帯に見られる現象で岩手県などでよく見られた。この付近では養老山脈や尾張守山辺りの古墳地帯で見ることができる。
金地洞 鉄鉱石を採掘した入り組んだところ
鍛冶屋平(かじやべら) 鉱山では山師に属し工具類を修理制作。
金山の井戸 坑区にある井戸だが、井は竪坑或いは窪の露天掘り。
鉈が岩屋 鉈は鉄を意味し、鉄を採掘した岩穴。
銀助平 方鉛鉱 方亜鉛鉱、黒同鉱、黄銅鉱、黄鉄鉱中に含まれるその採掘

このような風景が続く。
長者平はこのような畑になった。

吉田氏は1998年5月3日の森の国通信に次のように書いている。
粕河という地名はすなわち、安曇郷の海人族の地名には見られる地名で、探せば各地にあるのではないか。特に河川に沿って砂鉄の採掘のできる地方には必ずあるのであろう。それは粕川とは砂鉄の鉱石用語だからである。

ブログの著者からすれば、粕川という地名は割と多い地名であり、それを海神族に結び付けるのはいささか拙速な気がしている。あくまで私見。

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