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2月, 2021の投稿を表示しています
  【蚕と大般若】 大般若さんの季節がやってきました!!大般若さんの日に聞いたことをまとめておきます。 (中山観音寺、2019) ★ ★ ★ ★ ★ 行事はいろいろあるが、大般若には来ないかん。大般若さんは、なんでも願いが叶うありがたいお経を読む日だ。料理はいろいろやってあるけど、大般若さんには山のもので料理をつくる。昔は、食べ物がなかったでね。五穀豊穣とか祈った。 昔はね、7、8と2日あって、鳥居のとこに出店が出ていた。おっさんの声が大きいてね。外まで聞こえたと。中央の人たちはみんなお参りしたんだ。青年団がみんな、何十人もお参りした。礼儀作法を教えるためにね。村の役にここであいさつするわけ。区長さんとかがね。 虫供養の意味やったんや。虫供養というのはね、蚕を殺すやろ。虫とかいろいろ殺すけど、一番ひどいのは蚕。繭にして、蝶になるのが入ってて、それを殺すんやんで。繭を作ってまって殺されてまうやでね。 昔、寝るとこあらせなんだ。腹の上にも蚕。家中蚕だらけ。昭和37、38年ぐらいまでね。桑畑ばっかり。蚕の養蚕組合が川合の小学校のところにあってね。そこから小さいの持ってくるんや。 ゴミみたいのが3べん、4べんとやると、脱皮しておばあさんになってく。それを殺してまうんやでね。うちんなか繭かけておってね、この間まで、家にその跡が残っておった。最近、やっとその跡が消えたがな。 蚕の音がしてるんや。家中。 60戸のうち8戸が蚕を飼っていた。いまのお茶畑のところに桑を植えた。桑を植えなくなってから、杉の木を植えた。その杉の木も、立派になっている。蚕があかんようになってきてから、25歳から炭焼きをやっていた。 春日でやっていたのは春子と秋だ。秋子は炭とかぶらんようにやっていた。桑はセタで負んできた。50キロの桑を摘んで運んで、それから細こう切る。春子ってのは、前の年に伸ばした桑を切ると秋になると、切ったあとから芽が出る。秋は葉っぱをきって、春が出るように。1mぐらい。1年で枝は伸びる。葉は指輪に刃がついていて、ぷつっと、切れる。 蚕は4回、脱皮する。脱皮をするうち、うとうとする、うとうとすると繭のうちとなる、糸を吐き出す。 繭の値段には高い時と低い時がある。だんご繭がある。繭が2つ、ひっついているもの。製品にならないということで、母が出荷せず、家の真綿にするように、していた。製品になら
  植物で調べたこと教わったことを掲載しておきます。 【フシの木と虫こぶ】  春日では江戸時代の年貢として一斗の五倍子、18リットルの五倍子ですからかなりの量です。五倍子ともいい、「フシ」の木にできる虫こぶで、ショウガのような形をしています。お歯黒の原料になったそうです。フシの実は塩辛い味がします。  「虫こぶである五倍子は、フシの木に白膠木アブラムシが寄生してできる。タンニン60~80%を含む」  採取して熱湯で中の昆虫を殺して陰干しにします。使用するときは、粉末にし、鉄片を加えとのことです。写真がフシの木です。しょっぱい味がして、山の中でなめたそうです。 【ヌベシ】  写真はヌベシというそうで、ノリの役目。機織りをした最後の始末に使ったようです。 ヨモギと鉄砲  伊吹山で織田信長が薬草を栽培しようとしたらしい。伊吹の博物館で見たことがありますが、ヨモギで鉄砲の火薬をつくろうとしたという展示を見ました。 ヨモギから火薬をつくる焔硝製造法は白川郷にもあったようで、その作り方は、まず一年目に、床下に縦横4m深さ2mくらいの土穴を掘り、そこに稗枝を敷き、その上に交互に蚕の糞やヨモギ・キツネウドなどの山草を20㎝ほど重ねてそれを年に1から3回まぜあわせます。その上に糞尿をかけると5年目になって煙硝土が出来、煙硝土から冬場に灰汁あくに煙硝土を桶に入れ、桶底から灰汁をとりだして煮詰め、灰汁汁を中煮・上煮と何回も煮詰めると煙硝の結晶ができ、これを土用前後の暑い季節に20日ほど天日に干して乾燥するという驚くほど手間のかかるものです。  また、中国地方の口伝では本願寺門徒の間でヨモギの根に尿をかけたものを一定の温度で保存することにより、ヨモギ特有の根球細菌のはたらきで硝酸が生成されることを発見し、大量の火薬となったことが伝えられています。
中山  道分地蔵 80代 男性 恋折の地蔵は道分地蔵じゃないかと思う。お道を、右へ美束、左を山という。 恋折峠は昔の大通りだ。 村の中には、廣澤にも地蔵がある。古屋へ行くのと、はげ山へ行くのと別れるところにもあった。 道分地蔵とは、その地蔵を頼って旅した人がおるわけで。俺ら子供のころは花があると地蔵さんにちぎって、そなえたね。子供のころから、そういう教えを守っておる。なんでもかんでも、備えておけと。 廣澤の地蔵さんは、林道の上。禿山へ行くのと、三ノ瀬を降りて古屋へ行くのとあった。古屋へ行くのに、河原へ降りると橋はあるが、岩盤があるもんで、橋ばっか渡る。橋なんてのも丸太、切ってきてね。2本、3本と並べたようなもの。ちょっと大水が出ると橋が流れる。橋をくくって、そこに大体、大きな石にばんせんでくくりつけておいて、水が流れるとそう流れるままに。そして、また、ひっぱり。橋を渡らなくてもいいように、中山の部落を通って、いまの天理教さんの前をとって、製材へ。そこが三ノ瀬。迷わないように。禿山へ行く道と分けて。 いの谷の終点にもみちわけ地蔵。屋敷を通り、恋折峠へいく道を教えとる。その家から、尾根を伝って上がって行くの。尾根を伝って、露天掘りのところへつながる。露天掘りのところを行けば、そこが恋折峠の道になる。 地蔵さんが道を教えてる。小学生のころだが、禿山から漁師が骨を拾ってきてね。人間のさ。行方不明になった人だわね。着物かなんか知らんが、敗れた着物を広げて見せた人があった。こわかった。猟師があっちこっち歩いたもんで、そういうものを見たんじゃないか。回収してきて。山に迷ったんじゃないやろか。禿山で。中山の墓地、杉の木の下に埋めた。
弥三郎 アニメ おかげか、本屋にいっても鬼の話が目につきます。鬼とは怨霊?征服された民族?鬼にびびるのは、本当は正当性があるのに、滅ぼしたことにやましいこころがあるからでしょうか。 春日の昔話の伊吹弥三郎は伊吹童子、ざっくりいえば、鬼退治の話ですが、滋賀県側の弥三郎伝説になると、退治された弥三郎が祟りとして大風をおこすので、神様として祀ることになります。 この弥三郎伝説は全国にあるそうで、一カ所だけ弱点があるのを攻めて倒すというのがポイントだそうです。(「鍛冶屋の母」谷川健一)。鉄人伝説の一つというのを「鍛冶屋の母」が紹介しています。この本で興味を持つのは「千疋狼」です。これも鍛冶の話ですが、春日には千疋という地名があるからです。伊吹童子の伝説では、鬼退治のための馬をつないだところになっているし、同様の話は見つからないので、何とも言えないのですが。千疋というのは鍛冶集団に見られる地名のようです。 伊吹山周辺は盗賊が住んでいたようですが、鍛冶集団も住んでいたかもしれない。いろいろな時代があったように思いますが、この千疋には応仁の乱の時代の山城があったということで一度登ってみました。石垣のようなものはありませんでしたので、本当かどうかはわかりません。あそこの家の畑を使うなとか、五輪塔が出てきたり、いわれはたくさんあるみたいです。 ※大河も問題になってるみたいなんで、あくまで伝承ということで書いております。
横蔵寺 前回触れた横蔵寺に白洲正子氏が訪れているのはご存じでしょうか。「十一面観音巡礼」(講談社文芸文庫)のなかに出てきます。奈良の聖林寺で初めて十一面観音寺に出会った氏が始めた巡礼。訪れた寺の一つが横蔵寺なのです。 横蔵寺は、「白山ひめの幻像」という章のなかに出てくるように、白山信仰のなかで語られます。  「仏はつねに在せども    うつつならぬぞ哀れなる    人の音せぬあかつきに    ほのかに夢に見えた給ふ」  梁塵秘抄の今様の景色を神戸の日吉大社の十一面観音に見ることから始まった旅は養老、美江寺を経て横蔵寺で終わります。  横蔵寺は胎蔵界峰と金剛界峰の峰の間に寺院が築かれ、中心に「白山」と書いてあります。「いこいの森」という原っぱから、胎蔵、金剛の峰が見え、二つの峰の間には、今も旧堂の礎石が残っているらしい。 横蔵寺はミイラや仏像が有名なお寺ですが、横蔵寺では白山信仰に終始します。 白洲氏は揖斐川流域の寺に対して、白山信仰を通した神仏混合があらわれたか形を見ているからでしょう。「日本の信仰は、山と川によって発展したといっても過言ではない」という白洲氏の審美眼に叶った、神像や仏像や信仰の形が揖斐川流域にあり、それは山や川を敬うなかで現れた形なのです。  この章のなかには、揖斐川を ろく川と紹介しているところがあります。ろくという言葉が、霊を意味するらしく、「揖斐川とはよほど恐ろしい川だったのであろう」と指摘しています。霊ともいうべき 川への畏怖が日本の信仰をつくった。血があらわれている像こそ、本当の仏像や神像がある。そういった視点なのでしょうか。  紀行文であり、学術論文でもなんでもない文です。証拠のないところから発想しているはずなのに、書いていることが妄想に思えない。これが、本来の知性の有り方です。