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7月, 2021の投稿を表示しています
  炭焼きの記録 昭和7年、89歳。川合 川村さん  京都の北桑田郡、小浜へ出る峠、つるがおかで炭焼き。子どもを義務教育へ入れる年まで。  自分は、親にね置いて行かれて、おじいさんとおばあさんに面倒見てもらたけど。親と別れるのがつらかった。そのつらさがあったので、そのつらさは子どもに味合わせたくないと。  小学校を卒業したら、炭焼きと軍隊しかなかった。川合で生まれ、30年に、家内と結婚。  小学校卒業して、飛騨の久々野の奥に。久々野から、あげみっていうところで、たかねとあおやで分かれる。あおやの方の奥へ炭焼きへ13年。冬場は12月にもどってくる。4月まで川合にいる。この近くに山が無かったので。  分焼きというのは、親方がおって、その親方の山をば一表いくらで焼かしてもらうこと。久々野からだったら、歩いて。5里あった。  家は行ってからつくる。はじめは親方の母屋にすまわしてもらって、そこから小屋をつくって。つくるとやうつりといって、親方のところから荷物を持っていって。窯をこしらえる。炭小屋も立てなければならない。それで、秤にかけて15キロ。すると、15キロきっちりで検査とおらんで、貫目にすると4貫6、7尺ないと検査が通らなかった。  「ぬしやがごきはざかす」。という言葉は、うるしは自分できれいにやってるので、ご飯を食べてるとおもってみたら、はげたっぷりの碗で食べていた。炭焼きも、くすぶったところや、めしは柴で。炭は、買ってもらわならんで。商売となると。  川合では、ひるがの高原へ、キンマつくって、ひっぱったという子が大分おるよ。  きんまは、にんわかにできんな。樫の木を立派なええものを、厚みがキンマにする材料、樫の木。板にひくのは5センチぐらいの厚みだね。板は25センチもあれば喜んだ。種油を塗ってね。それが上等な油だった。  リョウブとか楢とか、をばんぎにしいてね。二本のバンギにその板がのって。三本目にかかるぐらいな幅に。ばんきに三本にのらないかん。キンマの長さによって、ばんきの間隔は調整。間をあけると、用意するのが大変。  炭の出るまでが大変。炭竃をつくって、炭が出てくるころは、ほおの木が咲くころ。そのころには、それまで、親方に借りて食べとった味噌やしょうゆや米、借りていたやつを払わなければならない。また、お盆にくる、費用がいるやろ。大変なんじゃんね。  寝小屋ってつ
 戦争 昭和15年に古屋で火事があった。中山の製材までは道が来ていたが、それから先は道がなかった。20軒が小さい小屋をたてていた。大東亜戦争。アメリカとはまだ何もやとらん。 消火栓もポンプも何もない。 父親は戦争3回。訓練1回。フィリピンのルソンで亡くなったと一緒にいった人が教えてくれた。20年の3月。 この村は大東亜7人、シナ事変7人。院号がついてるので、戦争でなくなっているのがわかる。勲七等。四井4人、松井2人、宮内。 シナ事変は下の道にある。 農兵隊というのは、16、17で、まだ兵隊に入れない子供。 鐘は戦争に出して、戦後買ったんや。
 熊笹 熊笹は三メートルになる。だから、遭難するんだ。熊笹の中に入ると。
 津島神社は、おてんのうさん、っていう。 昔、笹なんかを備えて。それを持って帰って牛にくれると良いっていって。 家は田んぼが少なかったら牛はいないが、久瀬の方からでも参りにきた。 安土は牛をずっとひいて、奥の田んぼに。 向こうから帰ってくるときに、つなが外れた。だっと逃げ出してまって、家に帰ったら小屋にはいとった。 子供のころは2頭おった。養老にとさつ場があり、そこの人が買いに来た。車にのせるときは嫌がっていた。 わらくさ刈って、毎日。農耕用。 長者の里がまるやまっていうんだけど、あそこに共同で牧場つくっとった。市瀬の人。夏場は放し飼いをしていた。山がまるくて、良かった。
 美束の六社神社の鳥居は、いまでも石を切り出したところがわかる。 まつらって言って、田んぼのあるところ。 市瀬の下。バイパスみたいな新しい道をのぼりきったところの四つ角。その谷の奥やよ。
中山の麻 お父さんが麻をつくったの覚えてるよ。 長い棒みたいなのをゆでで、川はいで。 麻畑は貝洞にあった。不当ぼうになるね。おかまが宮ん谷にあって、そこに入れて蒸したね。 しゅーっとうちのお父さんがはいでおった。 きれに束にして。 麻は勝手ね。竹を刀のようにして、葉っぱとって、釜でゆでた。 釜でゆでたのが、今の拝殿の近くまで・道路の終点にね。あそこにゆで釜があったよ。 昔のこっちゃで、借りた。持ち寄ってね。束をぐるぐるっと立ててね。おおきおけを上にかぶして、麻を寸法決めてやった。 蒸すというのは、ふっとうして、みはからって、15、20分ではできん。 皮だけ、むければよい。 芯を麻木と言う。皮はいだ美しいのが麻木。麻木は、くずやの一番内側に並べて、かやの穂がのぞかんようにしたもんだ。 鬼皮をはぐ。カラムシもやっていた。カラムシは売買できた。 麻は冷たい水にさらして、繊維を真っ白にする。ひやけて。雪でさらした。 冬になる。そこから雪の中から掘り出す。 しゅうしゅう爪で。繊維がついたものが皮。皮をさらして、色をとおとして、雪にさらし。雪は白くする。鬼皮とってのこったものを。 それを二本、よりをかけてね。よって、結局、縄にする。一本でよりをかけてもよい。 上手に糸にしていくのがその人の技術。 麻は秋にかりとっておく、実がいって、葉っぱみればわかる。色んでこないとわからない。
中山 禰宜さん 禰宜も何回もやった。四つ足を食べてはいかんということは、終戦からこっちだけどね。 四つ足なんて、終戦から昔はあらせなんだ。あんなもんは昔からあらせん。肉みたいなものは。 中山の禰宜さんは、寒に入ると、寒のあきまで、1カ月間水垢離。水をかぶっていた。 ところどころ井戸があったので、その前で。水垢離するまえは、冷たいというものはない。わからん。通り越している。 寒いの入りとは1月の初めのころ。 かぶる杯数が決まっている。神様は奇数、仏さんは偶数ということになっていた。2468は仏さん。3579は神さん。3杯かぶるか、7杯かぶるか。 井戸の中に雪が入ると、水の上面に雪がある。それをひきわけといて。冷たいの冷たくないぞという話ではないぞ。 よう、あんなことやったと、ひどいもんじゃなと思っておるんだがな。人間って。 あんなことは中山だけじゃなかっただろうか。 中山はきつい部落のしきたりがあって、祢宜さんをやってると、火をたいた灰をかぶるようなことはあかんということで、炭焼きはあかん。 お医者さんがなかったもんで、悪くなると、何かの神さんの祟りじゃあらせんか。いっぺん、神さんに聞いてくれということをいうと、祢宜さんが参らなければならない。昔の祢宜さんは容易ではなかった。おみくじをひいて、この人は、いろいろ言わなければならない。昔の祢宜さんは容易ではなかった。氏子が祢宜さんを頼んで、神様に聞いてくれと、御無礼になったことがあらせんかと。  しきたりがあったもんで、中学生で祢宜をやらせた人もいる。親父が祢宜さんをやっとると手間がひけるもんで、中学生ぐらいの子を祢宜さんに出して、自分が炭焼きに一生懸命になっている人もいた。 節分のときは、祢宜さんが豆と豆をいるときに使った炭、あれと藁を短くきって、 祢宜さんが豆と豆をいるときに使った炭、あれと藁を短くきって、それを混ぜたものを、玄関入ってきて、台所から入って、座敷に向かって神さん拝んで、それから禰宜さんが祝詞をあげて、おにわそと、ふくわうち言って一部屋、一部屋、座敷も台所も部屋も炊事場も庭も。撒いて、帰ってたもんだ。朝から。40軒も50軒も参ってるで昔は。昼まで、えらかった。終戦で裃なかったんだね。 雪がふると大変だった。朝早いで、禰宜さんやってるんで。 家の人は寝てる人は寝てる。どこから歩くかわからん。三時ごろからや
 中山 太鼓踊り 祭りの記憶 覚えているのは、秋葉さんから降りてくること。親たちは、飲んどった。体 親父はスーツ着て、笛を吹いていた。 自分が中学のころはやってなかった。45年ぐらい前には終わってるということだ。 太鼓とふさふさで顔は見えない。まといだけは顔が見える。よく覚えてるな。着るものはみんな一緒。 神輿はよくつくった。新聞紙はって、そのあと絵をかく。三丈俵をつくった。鯛と宝船。子供はおっても2、30人いた。家のまえで神輿をわっしょいわっしょい。もらったお金で、秋と夏の何かでつくった。 一番上が中学生、中学生で音頭とる。家の前に神輿がいって。きよまさって家、こっちはゆのたにていう地域。ゆのたにの一番上に、みこし担いでいこうと行こうと、急でね。あそこは一つでいい、えらいで。 きよまささんの家のあるのはおけらむらっていった。いのたに、おけらむら、なかむら、ここは、しもむら。ゆいやま。おけらむらがあって、なかむら、しもむら。 青竹を渡してね、骨組みがあって、新聞紙はりつけて、最後に白い紙はって、色塗って。そのあとは、寺の130段から、だああと落として、壊した。怒られたことあったね。めちゃめちゃにしてまった。    
冬の食料  大根のじくを切って、葉っぱも入れない。軸のこんなところだけを兜付けっていって、冬場、寒くなるとあげてきて、焼いてたべて。それが中の葉っぱがあるのがおいしかったんだ。 葉っぱの上は茎っていって、そればかを細かく細かく切って、塩でつけた。 それを寒中にあげてきて、塩出しして、みそ汁にした。それが、おいしかったんだ。大根の葉を煮るだけよりおいしかった。 そういうことはみんな、忘れられたな。 田舎の冬は、そんなものばかり食べてた。 秋になると行商が来る。魚を50匹買うと、大皿に並べてな。塩ふって、塩づけした。生の魚を売りに来る。
 薬草  中山の薬草は禿山にあった。禿山ってのは、伊吹登山道をいうとある。はげ山の途中は、尾根がこんだけしかないところがあるんだよ。 キボウは食べた。キンパイソウ。トウキは、匂いが良い。その次がクロモンジだでな。クロモンジは木だで。 トウキは伊吹山行くと、自然に生えているのだけど。育たない?そんなことはない。種まいて、簡単にできるよ。撒いたらはえるがや、3年経つと、成長してまってあかんだでな。多分、3年で終わってしまう。花咲かしてまってしまいやで、花を咲かせんでおくと長引く。結局、成長してまうんだでな。一生が済んだということや。 この辺では、ゲンノショウコやらウツボグサ、いろいろ細かにあるでな。 栽培するってったら、そりゃ。イカリソウの栽培から。これはええと思うよ。これも、自然にいろいろはえるんだで。日光半分あたるぐらいにしておいて。それが栽培だで。 林道いくと、いちめんこあるところがある。伊吹山のふもとでも、あるほどある。この辺でもあるけどさ。安土で自生している。そこにあるってことは、上手に栽培すれば、成就する。かきどおしってのは、自然にどんどん生える。強いでしょ。 ウドグサだって、種まいてやったらいくらでもできる。休耕田に撒いたらいくらでもできる。ウドグサは牛にも食わせるなっていったくらいでな。でも、お風呂には茶色い色になるで喜ばれるけど。 薬草は、自然に生まれたものは、薬害もないし、薬草はいいと思う。          
見られなくなったきのこ 山へ行って夜、ヒカルやつがある。倒木にこう一面。蛍の光のようなもん。 あおいような光。 杉の倒木から出たものは食べれる。足がなくて木にひらひらしてなるのは食べれる。 サンゴに似た栗拾う時季にあったのはが全く見られない。ネヅミダケ。 サンゴ礁のように点々と山にあった。宝のように。 それが不思議と何十年見たことがない。泥から出てくる。みんなも見たことがないと言う。
 麻糸を績む 糸車 麻の皮からいとを績む。 皮は90年近くたったものを。 鬼皮をはぐ。 皮をわる。 杯でつなげて、かごのなかに入れておく。 糸車でよりをかける。 糸車が壊れたので、y夫妻に直してもらう。 管木をさしこんで、糸によりをかけていく。