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2月, 2022の投稿を表示しています
 草刈り場  草刈り場といって畑があると、昔は肥料とかはあらへん、草を入れて。畑があるものは誰が刈ってもええという。個人のものじゃないんで、部落のもの。  小宮神は大きな草刈り場があらへん。遠い遠い山の上の。草っていうもんじゃない。ただの木の枝を切って。草刈りして、焚きものも切って、向かいの山も部落の草刈り場で。広い草刈り場があった。そこに、しばわらもあった。  春になると、木を伐って、藤で束ねて、束でまわすんだ。向かいの畑までまわってくるんだ毎年。屋根して積んでおいて。持ってきては炊いた。  昔は山の柴でなければ、焚きものはあらせん。
 1年前から負けることはわかっていた          終戦になったときは、鎮江(ちんこう)という小さい町。一個中隊だけそこにいた。  綿がようけとれるで日本から会社が来ていた。12時に天皇陛下の重大な発表があるで聞け、とラジオを持ってきてくれた。外に据えて聞いていた。終戦。  シナでは1年も前ぐらいから、シナ人も日本は負けたと騒いだ。わしらも日本は負けるということは早うからわかっておった。  甲種合格は皆、南方へ行ってまうで、第二乙みたいなのが人数あわせで来てた。シナは戦闘はひどいことあらへん。南方のようなことはなくて、やってけるで。それがもってくるものを見ると、いまに負ける。  藤の皮を供出したというが、ああいうもので織ったガタガタの服。鉄砲は青年学校の稽古に使うようなもの。水筒は竹筒。  ゴンボケンも中身は普通のカネだが、鞘は竹。カネがあらへん。鉄砲も弾の出てくるようなのじゃあない。それも二人に一丁。 ものがないことは聞いておったが。シナでおってみると、想像はついた。  海軍の船が沈んで、漁船に米を送ると南方に送る前に沈む。南方はかてえて死んだ。日本にも米もなんにもない。その時分の幹部はどんな頭をしてたんじゃ。大東亜戦争を始めたのもそもそも間違いだ。天皇陛下も朕わじゃ。朕が戦争やらんといったら、できのんやて。
 頭を日の丸の旗で包んで           一個中隊で4人死んだ。  一服しとった。何も音もせん。そしたら、コンコロコンと一人かやって死んでまった。  弾が当たっとった。どっから来たのかわからん弾。一服しとった時やで、焼いて、骨にしたわ。  初めのうちは死ぬと首切った。中の良かった戦友がいろいろ書いた日の丸の旗持ってる。それで頭を包んで。背嚢の後ろにつけて。焼く余裕ができるまで、負んで歩いた。戦争終わって、余裕が出来ると焼くで。  泥や石ではなく、実際の骨じゃ。南方あたりじゃ、やられてまって、遺骨を収集するような間もない。形見ってのはないで、泥や石を遺骨のかわりにした。そのものの骨とはいえんわな。
 村に戻ってきたら本当に何もなかった           村に戻ってきたときは、何にもない。戦争に行く時はそんなことあらへん。何にもないということは向こうで聞いていたが、想像以上にのうてびっくりした。  政府が価格を決めて、それでも、買おうこということはできん。配給じゃ。一定の量だけ配給。マッチ棒を一本ずつ分けた。  山の木の葉をくったりして命つないだ。わしは、りょうぶはくわなんだ。ギボウシや、フキ、魚釣りにいくと、ええフキがある。フキ飯だ。おもに食ったのはさつまいも、お茶を切って、さつまいもの苗をどんどん植えて、さつまいも飯を一番炊いた。そこにちょこっと米入れ。さつまいもの軸から葉を。毒にならんものは何でもくった。 聞き書き藤原正身さん(21・9・19)  大正7年7月7日生まれ
 北支は  今日も明日も雨が降る                     北支は、梅雨時期になると今日も明日も雨が降るんじゃて。北支で雨が降るとぬかるみになる。火山灰じゃろ。どぼどぼになる。難儀をしたなあ。あるけん。馬は使えんしな。馬はずぼずぼ。靴は土踏まずから前に厚こい皮がうってあるが、下にすいついてはげてまう。現役の時だ。山東省。北支はさぶいさぶい。 敵は初めは共産軍ではない。蒋介石が相手だ。  弾はとんでくる。北支の山奥でも戦争はあった。山岳戦は、機関銃は馬がおるので、崖にいくと馬は危ないところに行くとよけいあわてる。落ちては死んだ。馬は日本から連れて行き、死ぬとロバをシナから挑発。ロバは小さいが、駄馬という、日本の木曽馬ぐらいのもの。それは鉄はくことはいらんし。  馬は死んだら埋ける。ほとんど崖から落ちて死んだ。日本の馬は場の弱いところに弱い。機関銃の馬は大きい馬ではない。小柄の馬。馬でも招集があった。挑発というのだけど、民家のを買い上げる。馬に行儀もないで毎日、毎日、訓練。わしも馬の訓練をやった。馬の訓練はえらい。落ちたときに鐙がかかってると、頭をひきづられて死んでまうから裸馬だ。けつがいとうて。けつがすれて血が出る 藤原 正身さん
 薬草の中身              薬草は先代がやっていた。18、19のころ、香六の人が主になって、伊吹薬草組合をつくった。ヤマトタケルのみことの絵のついた袋で。  その時分に京都府に炭焼きに行っていて、シャクヤクが杉原のなかに、知らんうちに群生している。赤い目が一杯、雪のなかに。雪が消えると見えん。そいつを、一日中掘った。炭竃の上で干して、目方も軽なる。むしろをぐるっと巻いて、閉じて。一杯ぐらいじゃない。鉄道で送ってきた。  ここで大勢おって、飲み薬を刻む、風呂に入れるやつ。シャクヤクを入れるとよかったんじゃん。高う買ってくれた。いまでもあんなもんあったら高い。いまは、鹿が増えて全部食べてしまう。  栃原人参というものはある。1年1年、目が出たやつが、節になる。長いと20年ぐらいたってる。それは苦いんじゃ。とちはら人参といって栃の木の下にある。 藤原正身さん
 鹿は珍しかった   わしが鉄砲撃ちをやるころには、美束に鹿なんか一匹もおらなんだ。いまは、鳴きかける。  香六のお宮さんの谷、宮の谷、いくらぼっても、そこは越さなんだ。谷山の谷から鹿をぼっても、天神谷から上に鹿は絶対来なかった。美束に鹿はおらなんだ。    いっぺん、どえらい大雪があって、熊探しかなんかで行ったんだ。そしたら、尾西の奥に珍しいものが死んどるというじゃろ、そこへ行ったら、滝つぼに鹿が落ち込んでまった。小さい鹿が。淵にあがれない。珍しいものが死んどると。滋賀県の方からきたんだ。大分昔じゃでな。わしが、35歳か40歳。  鹿が来たのは、最近ということはないけど、20年にもならん。角をまきつけては死ぬ。ここの川渕に。角があるやつが、余計に巻きつく。  猪でも鹿でも小糠いれておくと、おりにかかる。猪も来て仕方がなかった。うちの畑にも猪の小さいのがじゃがいも堀ったあとだったな。そこら中で、じゃがいもを食われた。そんなときにゴミを集めるときに、トラップがあった。それをもらって、畑にかけた。あくる朝、隣の人が、ししがハサミにかかってる。小さいやつがかかってあった。初若のじすけという猟師ともだちが。  小さなうりんぼうだったが、そこら中、ほって歩いて、こんな小さいのは兄弟で2つや3つはおる。しかし、その一つで終わりだった。おれがとったら、みんなが喜んでくれた。   豚コレラでよほど死んだんか。美束もおらんげだ。美束の田んぼで、ネットでも丈夫にしとかん。  いのししは、1年に5つも6つも子をうむ。鹿は1年おきに、1匹しか産まない。それが増えるというのは不思議でかなわん。 聞き書き 藤原 正身さん 大正7年7月7日生まれ 2020・9・20
ポチと熊を追う ②   冬は冬眠というけど、穴へ入っているだけで、寝てる時もあるけど、犬がそばへいって鳴く、犬がくいつきに行くわ。すると、ぐわっと怒って、犬をぼってくる。  犬も簡単にくいつかん。だあ、と逃げてく。熊の鼻と犬の鼻が離れたところ、犬が下がる。熊がぼってくる。  子がおるやつでは、節分の境に子を産むとしたものなんじゃ。熊はおんとめんと二匹産むでね。一年置きにしか産まんし。  1年は5、6貫目のやつを連れて歩く。その年は子を産まん。1年おきにしか産まん。鹿も1年おきに1つ。猪は豚と一緒、いくつでも。穴へ行って、犬をぼってくる。ぼってきかたによって、子のおる熊か。おすで一つかと言うことは、わかる。おすだけだったら、犬を遠いところへぼってくる。穴のなかに子のおる親は、ぼってきても2メートルぐらい。すぐに穴へ戻る。  熊をやったことがないもんと一緒に行くと、慌てる。熊はあわてて撃ったらあかん。弁当をおろして、一服しようと落ちつかせる。  わしは、犬が良いので勢子といって追い出しにいく。マチが待っている。熊が休んでたのを犬がかぎつけて鳴いた。きゃんきゃんきゃんと鳴き声が、熊に鳴く鳴き方じゃない。痛かったという鳴き方じゃ。  雪が血だらけ。犬が割かれてまった。熊は行きよる。遠いが、撃ったらね。するとね、熊が行く方から撃ったと思ったんじゃな。ちょうど、犬がやられてるところに戻って来た。  犬だかまいとるで撃てへんが、犬離いて、こっちの山に上がりかけた。冬でも葉のある木があるが、ケツだけ黒のが見えた。なんでもいいで、ばんと撃ちこんだ。そいつが当たってな。下へ落ちてきた。熊はまだ、死んどらん。その下は結構な淵があった。そこへ、熊がどぼーっと飛び込んだ。そこへ、頭をばーんと撃ったら、グダンといった。  上の方に待ちが二人おる。ケーツ吹いたら、上の方から慌てて返事きて、降りてきた。雪がまっかじゃろ。「なんじゃ」というで、猪に犬がやられてといったら、先生は、感づいとる。犬があんなにやられるのは熊しかいない。素人の人に渕になんぞおらんかと言ったら、「いかい、熊、浮いとるぞ」。熊、おれが撃ったんじゃ、渕から引き上げようと。重くて上がらんぞ。  犬がやられたところは毎年、熊が二つや三つおるんじゃ。十以上とったな。  伊吹山からみると、木もようけ生へとらん、壁やで。駐車場から見ると岩壁
 ポチと熊を追う その1  昔は狩猟期間は、半年あった。10月15日から4月15日までが狩猟期間。その中で、時期によってとるものがある程度違う。  春、4月は熊じゃ。熊も30いくつとった。養老のたかぎさん言う人が福井県まで買い集めておったが、その人でも、見たことのない熊やな。 貫文目でいくと37貫500あったんじゃ。   熊は、 胆のうが高いんやで。当時は皮も高かった。皮も真ん中に将棋盤をおけるだけの皮やったらものすごう高かった。肉は金せん。油こうて。  美束の山を越えて一番大きいやつは撃った。国見峠より、北の方。国見峠は岐阜県と滋賀県の境やでね。あれを越したら、県のずっと奥まで、甲津原まで県公造林。そこで、五つばか撃った。熊だと、四人グループ。   犬が良かった  熊は犬が悪かったら全然だめだ。わしのもっとった犬は秋田犬をかけた大きな犬じゃ。美束の古い猟師が師匠で一緒に歩いたが、こんな犬は何百も一匹もおらん犬やと。しまいに猪の小さいのくわえとって、名古屋の遊びに来た猟産師が猪を加えてるときに撃つなというのに、撃ってまった。犬の足を。猟師やめようかと思ったわ。45ぐらいの時。 命の次に大事な子やった。いのししなんか、三百メートル向こうでも知っとったでね。  犬がにおいがするとね  犬がね、匂いがすると、ふぉっと走るわ。匂いのするほうへ。冬は山の上から風が吹き下ろすんじゃ。匂いがばあと下の方へ来ると犬はふっと頭上げて、匂い嗅いでるわ。「なんか、おるなあ、匂いがきたなあ」と鼻振っとる。そのうちに、方向決めてだあっと行きだすわ。風で匂いが消える時があると、だああっと歩くわ。風の向きで匂いが来るところがあるんだね。すると、走り出す。また 匂いが切れると飛びあがって、ふっと、匂いが来んかと。  匂いが濃いでね。熊だけは姿見えでも鳴く。猪や鹿は姿見えな、鳴かん。熊だけは匂いがきつうなると泣き出す。鳴き方が違うの。鹿はきゃんきゃんきゃんきゃんと言う。猪はそばにいくとわんわん。熊は初めからわんわんと細かいわずに、わん、わんと切って鳴くわ。 聞き書き 藤原 正身さん 大正7年7月7日生まれ 2020・9・20
 真山の水が止まった                (2019)  真山は高い山なのに水がない。それでもドロマイトの岩の下には出とった。  唯一水が出る場所だったんだが、いまは出ない。なんで出ないかと言ったら、ある人が子どものおしめを洗って、バチがあたって、水が止まった。 山口さん
 うさぎの耳、藤の皮、どんぐりを供出        ウサギは、結構おった。ウサギの皮を供出。ソビエトの寒いところに。兵隊の服に使う。うさぎの耳を持っていかないと証明にならなかった。くくりをかけて、いろいろあってね。 戦争の時は、藤の皮や麻を供出した。それも割り当てで。皮をむいて干して出す。役場へ出して、そこから、軍へ出すのか、県へ出すのか。兵隊さんの服に。  からむしやまなべの皮も出した。  かしつ(どんぐり)も子供に割り当て。飛行機の燃料やって。  兄弟が多かったので、妹や弟はよう拾いにいかんやろ。俺、長男やで、その子らが持っていかねばならん。一人5升。キロでいうと7キロ。それを学校に持っていく。  それが、学校にこわいほど積もってあって、戦争がすんでまったでね。干してまってあるで、腐らんけど。廊下にあると滑る。石ころのようにね。  わしらは横着坊やってで、それを撒いまとくと、先生に叱られてな。  それでも、拾わなならんときは、1斗が一升マスに10杯。3斗ぐらいないとね。  激しくなったのは、18年の中頃から19年にかけてやろうね。2年ばかり。秋落ちたやつは。干すのも家で干してね。手かけるのをいらんようになってから、先生が持ってこいというで。  兄弟の下の子に持たさなならんで、わしら毎日、どんぐり拾いや。それが、ようけ拾えんのや。みんな、拾ってるので、あかせんのやで。俺ひとりならあるよ。たももキレでこしらえたのでやれたけど、川の中にあるのは取れん。川の中まで行った。  いまでもね、栃の実をば、主食にして食べる時代があったやで。いまでも、とちわらけんじょう。とちけんじょうっていって、栃ノ木だとすると、栃ノ木だとすると、うちの山だとすると、栃ノ木はよその人の木だとすると、とちわらけんじょうといって、その枝がはえているのはその人の権利。いまでも、それは、権利書がどうとういう話もあるのではないかな。  栃ノ木だけだ。春日中にある。美束にもあるし、伊吹山の下にもあるね。栃ノ木一本だと思っても、栃の実が落ちるところは、その人の権利。実をばそれだけ大事にしたというのは、米がなくて、栃の実を大事にした時代があったんだろうね。  川村 源一さん(2021)
 どくじ              どくじは中瀬は中瀬山にある。たたりがある。あとは、寺山のろくじだいら。  明治の時代に土地を分けたもんだで、分ける前に、焼き畑をしてたりするんだけども、いいとこじゃもんで、ここは俺の土地だと構えてまったのではないか。神さんを祀って、バッチギというけど、俺の土地だということで、構えていたと違うか。  中瀬は2箇所ある。吹谷の入口。一つのところは下吹谷(しもふきたに)、もう一つはろくじだいらと言ういいとこだ。  しもふきだには田んぼのあるところ。ろくじだいらはおとびらの方。寺本山だから。   過去帳をみても文政からわかる。それを見ると江戸中期にはどくじというのはあった。  祖父でも、あそこはろくじなんで買うなと言った。怨念があるで、買うものではないと言っておった。  炭焼いたら、子供が日並びで二人一緒に死んだ。たたりはあるなあと思った。昭和20年ごろ。戦争時分じゃ。 その後もそこの土地を買った人がいる。信じない人だったので、良い土地が出てればその人は買った。  原木がないとよその山を買って焼いていた。その人も植林が盛んになったころで、のことで、昭和。大昔のことよりは、遭遇にあった人がいることで、真実がわかる。人が嫌がることはせんほうがいいんだ。 駒月 作弘さん              (2021)
 美束から川合集落へ下るところにあるドロマイトの鉱山の上を通って大垣藩に税を納めていた。道はがん(岩)が悪くて、通るのに危険な所があった。だから、庄屋のきんべえが、大垣の戸田藩に行って、難工事だ、と訴えたところ、殿さんが何言ったかと言うと、「きんべえ、工事が難儀だ、難儀だと言うけれども、一日自分が持ってった弁当の分だけ掘れないか」と。しゃあないで「一日、持ってった弁当ぐらいは掘れます。」とこう言って。ほったところが、「それなら、辛抱して掘りなさい。」  補助金出す出さんはどうやったか知らんが、それなら辛抱して掘る。きんべいは、帰ってきて、がいの橋を掘るようにした。  あの辺のがん(岩)はね、かねくいっていって、削岩機の削でさえも潰れるような固いがん(岩)。一日、昔でならノミで掘ったって、持ってった弁当の量っていったって、よほど辛抱すればできるわさ。そう言われて、そうですかと帰ってきた。で、通れるようにした。庄屋をやってたきんべえが、最後のお願いだった。  きんべえは、長年、庄屋をやっとって、「まあ、じじ、もう俺んところ来るな」と殿さんが言ったって。それほど長いこと、庄屋をやっとった。  この上の集落で、いま、屋敷があるけど、きんべえが滋賀県から土地をもらいに行ったというのは明治の代になってからだ。江戸時代と明治の境目に生きた人。私のおじいさんが明治8年生まれで、その人のおじいさんだで。きんべえは。  明治の代になってから、日坂の高橋さんに頼んで裁判して結局、大津の裁判で勝って、山林を何百町もらった。それが、経費がよけいかかった。集落で財産をもらったにもかかわらず、一代で炭焼いても焼ききれんほど土地が大きかったのに、集落で費用を出さなければならんので、そこで問題が起きた。  「新川きんべえが余分に使いこんでる」。ということがお寺の集会で出た。そんだけの財産を難儀してもらったくせに、悪者になったわけだ。きんべえに「文書を持って来い」と。そういことで、古い古い文書を持っていったら、目の前で火をつけて焼かれたと。裁判の書類は当たり前だが、それ以前の書類を目の前で焼いた。焼いたのは村のじん(人)。集落のじん(人)たが、金使いこんだじゃろうと、腹立ちまみれでやった。だから、集落の歴史は一切ない。  あまりにも、むごい結果だったもんで遺言をした。「まごこ(孫子)の代まで、村の役は
みがきずな 水車  昔はみがきずなを入れて米をといだ。粉だ。砂やで。だから、いまでも、米をといだら、しょうけにあける癖がついている。  水車は金でつくっていた。水がたまるとたあっと流れておる。小屋があって、羽があって、あれに、水がたまると落ちていく。  中山は広沢に水車があった。
中山 わんだの地蔵さん  野垂れ死にした人のお墓だと思うよ。わんだという所。その人を祀ったのが初め。お地蔵さんを誰がつくったかは知らん。屋根はうちの母親がつくった。うちのおばあさんが悪かったときに、お地蔵さんが夢に出て、お地蔵さんが屋根が壊れてる、屋根が壊れてるというもんで、鉄工所でつくってもらった。10年ばかり前。  そこに、行かなければ毎日に行けなかったので、毎日通っていた。水を備えたり、花を供えたりした。  四井 あけみさん  2021 11月 聞き取り
 蛇つかみ 蛇つかみに長者平であったことがある。大きな袋を持っているというので何かというと。袋一杯蛇だと言う。30キロはあったろう。だしにするらしい。その人を車で送った。 駒月 作弘さん 21年10月