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  伊吹山 中山観音寺】  そろそろ春日に入っていこう。伊吹山の話が続いた。  岐阜県揖斐郡揖斐川町春日中山観音寺は、伊吹山の西の麓。その前身である元正庵が関ケ原の戦いでは小西行長を匿った伝説を持つお寺である。小西行長伝説は数カ所あるので、事実かどうかは明らかではないが、小西行長伝説が息づいている。  伝説というように、事実とは確定できないものの、何等かの真実があるものと学んでいるのである。私が知らないことをいうときは、私が原子力について言うようなものである。引用には注意されたし。  中山観音寺には小西行長伝説とともに、十一面千手観音、大日如来、釈迦如来は長国寺にあったとの伝説がある。伝説というように、この長国寺、実態はよくわかっていないのである。土岐頼康の再興とか、長者とか、ありとあらゆる伝説をうけとめている。仏像は、長国寺が無くなったあと、美束の小さいお堂に置いてあったということになっている。  その観音堂はいまでも残っていて、小豆と交換してもらってきたというが、 小豆八斗、1・8リットルが一升。八斗は120キロである。美束の太鼓踊りには、種本観音様として現世利益的な歌詞があるので、確かに観音様はいたのだろう。  大日如来は、禅定印を結び、ほっそりとした腕の美しい仏様である。釈迦如来はふくよか。自分には二体の仏像は別のものに思われるが、まったく門外漢であるので、ご存じの方ががいたらご教示いただきたい。一木づくりで京都から来た、平安後期、平泉中尊寺と同じ作風とだけお聞きした。  平安後期の大日如来像で有名なものに、横蔵寺の大日如来像がある。こちらの方は、1183年、筑前講師作。高く結い上げほうけいや、腕や衣の感じが自分には似ているようにも見える。時代区分や地理的な近さからして何等かの関係があるのか。専門家の意見を聞きたい。ちなみに、  三体の仏像が中山観音寺に移ったのは1600年の関原の戦いの後との伝承であるが、この大日如来、釈迦如来には昔話が残っていないのだ。一方、観音様だけ言い伝えがある。江戸初期、目をわずらった大垣藩主のお姫様おさいさんが「中山の観音寺に参れば、眼が治る」と夢に見た。おさいさんが、観音寺に籠ると果たして、目が治った。姫は、中山への道は険しいということで、栄春院を下に建て、観音寺をこの山寺からもっていってしまった。  観音様は下にいきたくないと
  【伊吹山 今昔物語集】  先ごろお話した宇治拾遺物語の伊吹の聖は今昔物語にもあります。こちらでは、聖が伊吹山の三修禅師と実在の人物にしています。美濃国は春日と言いましたが、美濃国不破郡となっています。伊吹山ということでお許しを。  この話は聖が天狗の演出した阿弥陀仏の来迎に誘い出され、僧房の法師に救出されたものの、正気がないまま死んでしまったという不思議な話です。  聖が念仏を唱えていると阿弥陀仏が聖を迎えにきます。しかし、7、8日経って僧たちがみたものは、高い杉の木のうえで裸で縛り付けられている聖。ひどい話なのですが、聖を三修禅師と解説しているのもポイントです。三修禅師は日本三代実録にも見える人物で、伊吹山寺の開祖であり、長尾寺などを始めた人です。伊吹修験の開祖である聖が天狗にたばかられる念仏聖人になって、往生に失敗するというところが価値観の変わりようや、今昔物語側の意図が見えて、興味をそそります。ということで、今回も春日に至らず、次回は伊吹山と春日について、調べてみましょう。  物語は以下のようなもの。コピペしておきます。 巻20第12話 伊吹山三修禅師得天狗迎語 第十二 今昔、美濃の国に伊吹の山と云ふ山有り。其の山に久く行ふ聖人有けり。心に智り無くして、法文を学ばず。只、弥陀の念仏を唱ふるより外の事を知らず。名をば三修禅師とぞ云ひける。他念無く念仏を唱へて、多の年を経にけり。 而る間、夜深く念仏を唱へて、仏の御前に居たるに、空に音有て、聖人に告て云く、「汝、懃ろに我れを憑めり。念仏の員多く積りにたれば、明日の未時に、我れ来て汝を迎ふべし。努々念仏怠る事無かれ」と云ふ。聖人、此の音を聞て後、弥よ心を至して念仏を唱へて、怠る事無し。 既に明る日に成ぬれば、聖人、沐浴し清浄にして、香を焼き、花を散じて、弟子共に告て、諸共に念仏を唱へて、西に向て居たり。 而る間、未時下る程に、西の山の峰の松の木の隙より、漸く曜き光る様に見ゆ。聖人、此れを見て、弥よ念仏を唱へて、掌を合せて見れば、仏の緑の御頭、指出給へり。金色の光を至せり。御髪際は金の色を磨けり。眉間は秋の月の空に曜くが如くにて、御額に白き光を至せり。二の眉1)は三日月の如し。二の青蓮の御眼見(まみ)延べて、漸く月の出るが如し。又、様々の菩薩、微妙の音楽を調へて、貴き事限無し。又、空より様々の花降る事、雨の如し。仏
  【下流で何が起きていたか 五百木部の没落】  続きの「美濃郡池田郡の条理」(史林 1987年)。 「池田郡司五百部惟茂解」は祖先伝来の田畑を手放す文書。売却は1035年に行われた。未納の官物のかわりに売却され、国守の所領となった。  当時の美濃国守は源頼信。源義家の祖父である。実際に請け負ったのは、郡司の宮道氏か、美濃源氏と呼ばれた一族と論文は推測している。  全国的にも11世紀前半は天然痘はじめ伝染病が猛威をふるっていた。作人の確保ができにくく、土地は荒廃していったらしい。  1035年とは当然ながら平安時代である。五百部とは、古代の豪族である。何かの事情で官物未納となったので、土地を売却した。古代豪族から支配者層が変わったことを示す文書でもある。  11世紀前半の春日下流の話。写真は徳山ダム。
  続きの「美濃郡池田郡の条理」(史林 1987年)は、「池田郡司五百部惟茂解」を紹介した文書・9世紀の粕川流域についても書いている。  揖斐川や粕川流域は早くから開発が進んだが、洪水によって、田畑が荒廃しやすい地域だった。「日本文徳天皇実録」の記事が興味深い。  美濃の国司藤原高房が赴任したときは、安八郡の堤防が決壊されたまま放置されたまま。水の神の祟りを前任者がおそれたのだ。  流れる水をとめると神がおそれるという。しかし、高房は民衆に利するためならば、死んでも恨まずと堤を気付いた。そのような記事だ。  安八郡一体の記事であり、9世紀から10世紀に池田郡一体の様子を語る資料は存在しないまでも、粕川流域で同様の状況があったと論文は書いている。  粕川が荒れていたなら、国司はその上流である春日に目を向けたことがあったかもしれない。  春日には粕川が流れている。下流に粕川があるから上流が粕川なのか、上流からしてはじめから粕川なのかはわからない。美束からは粕川であり、中山を流れるのは長谷川である。
  【安土 焼き畑】  コンバ炭というのは、くぼみに生木を入れて、夕方に燃やして泥をかぶしてかき混ぜる。木は楢がほとんど。葉っぱを食べてるころだ。  焼き畑は自分らもやっとる。炭を焼いているとしばができるでしょ。それをある程度、傾斜に置いて火をつける。焼き畑ってのは、わしらも覚えてるぐらいだが、コンバ炭は、木の葉っぱ食べて生活しとるころ。  昔は稗や粟をつくったらしいけど、最近はだいこんやら。終戦前後までやったやろ。どこでって炭焼いところで、いたるところで。炭がまの近くで、おかずがないので、炭焼きながら、大根とか葉っぱつくった。  枝を集めて焼くときれいな畑になってしまう。火事になったこともある。風上から火をつけるとか、工夫をしたんだけどね。隣の炭竃をもしたこともある。  なんでもない土地に良い大根がとれた。ちょんちょんと鍬でうったんだよね。ちょんちょんとつついて、種がかくれる程度に種を撒いて。
  【壬申の乱 湯沐令 春日郷】  壬申の乱に出てくる安八磨郡の“湯沐令。日本書記のなかで、割と有名な箇所だ。  昨日の続きの「美濃郡池田郡の条理」(史林 1987年)も伊福郷と春日郷の場所を推定しつつ、安八郡で思い出されるのは日本書記、壬申の乱の勃発時における有名な記事だと紹介している。  大海人皇子は村田国連男依ら3人を安八磨郡の“湯沐令”に派遣する。不破の関を塞ぐように命じたのだ。 「安八磨郡の湯沐令、多臣品治に告げて、機要を宣り示して、先ず、当郡の戦を発せ」。  よほど、信頼が厚く。朝廷との関係が深かった人がいたのだろうが、壬生郷の関係も深いが、他の郷も大海人皇子の勢力基盤であると上記論文は結んでいる。  湯沐とは皇子らの養育にかかわった人。伊福部からその職についていた人物がいた(日本書記、雄略3年4月条)。池田山の東麓、粕川扇状地がその一体であるが、春日郷も含まれる。その上流にある春日がある地域も何等かの関わりをもったのかもしれない。想像するしかない。
  【春日村史、森の国通信など】  春日村の歴史を語るときに引用されるものとして、村史、博物館が出していた森の国通信がある。その中で春日の歴史を古いものとする根拠に戸籍資料(702年)に出てくる、味蜂間郡春部里(春日郷)の存在がある。  脛永あたり一帯とする説が有力なのだが、美濃国神名帳にある「従一位糟河大明神」という最高の位の神社が村内にあると主張することによって、春部里は春日との説を展開することがある。  しかし、春日郷(春部里)が脛永あたりに推定されたのは定説のようだ(「岐阜県の歴史」山川出版社)。「地図から読む歴史」(足利健亮著 講談社学術文庫、256頁)では、脛永にある春日郷と隣接した伊福郷の地図を掲載している。伊吹山の由来を説明する章なのであるが、春日郷を推定した論文がおもしろそうなので読んでみた。田島公氏が、院政時代の日記の一部に「池田郡司五百木部宿祢維茂解」を発見し、田畑の分布から伊福郷を推定。伊福郷の位置を特定したことで春日郷の位置を導いている。  「池田郡司五百木部宿祢維茂解」。五百木部というように伊福部の子孫であるが、洪水等で田畑が荒廃したのだろう先祖伝来の田畑を手放す文書である。論文は「美濃国池田郡の条理」(史林、1987年)で、美濃国神明帳の従一位糟河大臣も養基神社と特定。養基神社が伊福部の氏神としている  論文が書かれたのは1987年である。春日郷がほぼ特定されながら、森の国通信(1996・3)は、春日郷を現在春日のある地域に設定している。その理由が「従一位糟河大明神」は村内にあることなのだが、「従一位糟河大明神」が村にある証拠もなく、そこから論を展開することに疑問はある。 もちろん、これは、あくまで、文書から見た春日である。文書以外の春日の存在は否定しない。
  【安土 しょうゆがしを買いに】  「滋賀県の吉槻の向こうの七曲り峠のところに炭を買うところがあった。鍛冶屋って言って、そこそこに醤油屋があって、味噌、醤油を買ってきた。ところが、本物の味噌じゃないんです。しぼりかす。醤油かすを。  親父らの話によると美束からいつも買いに行ったんですね。何月何日、醤油かすが何貫出るよと。そういうハガキが来たそうです。すると隣中に聞いて、まとめて、買いに行った。  よぼいあって、早朝1時、2時にでかけるのを覚えとります。寝とって、隣のおじいさんがよぼいに来たのを覚えております。「行こか」って、寝床の中で聞いた。 何人かで行った。昔は入れ物がないから、藁のカマス。両端を縫って入れ物にして醤油かすを入れて持ってきた。 この間、醸造元に行ってみた。いまはやってないけど、醸造屋のおばあさんがいらっしゃって、嫁入りしたてのころ、揖斐の方からかすを買いに来てくれたのを覚えてとります、と。かくしょうというたまりやだけど。  醤油屋の近くに鍛冶屋っていう部落がある。そこで農機具をつくっていて、そこへ、美束から炭を背負って行った。昭和の初めか大正末期のころだけど、美束の炭がやわらく鍛冶に適していたということで。こんばずみというよね。生木を入れて、泥をかぶして、夕方にはもってきた。」(80代 男性)
 【 安土 安土が中心だった】 揖斐川町最奥の美束のバス通り(一応?)から離れた集落、安土。しかし、安土こそ、美束の中心だったという。 「安土の上には峠があったでしょ、いまはカットしてまったでけど峠越しでね。みんな安土をとおっていったの。安土の奥に中瀬の山があった。峠を越えて市瀬の方へ行った。中瀬の州の部落には山はねえでな。楢谷と吹谷に。吹谷に中瀬衆の山が多い。全部、安土を通って行ったんです。 貝月山のふもとじゃわな。安土は。 長者の里から下へ行くには、安土を通らなければ、どこへの行けなんだ。安土というのは安住の地。神様も仏様も多い。発心寺、山の神、南宮さん。有名な地蔵である六地蔵。 地蔵さんのあるところをおない坂。毎日、毎日、あの峠をどんだけ超したかわからない。発心寺さんのお寺の屋根ぐらいの山を登っていかなければ、高い所を通ったわけです。峠をね、荷物を背負って、毎日、毎日。 あそこを通らなければどこにも行けなんだ。滋賀県行くにも、あそこを超えて、中郷、尾西を超えて、国見峠を越えていくわけで。」 安土には正面谷がある。安土の山は貝月ということで、正面谷とは貝月に向かって正面ということだろう。安土が美束の中心だった。国見が正面に見えていた。聞き取り 80代 男性

花奪いの源流を宮本常一が書いている。 越前石徹白民族誌(「日本民俗誌体系 第7巻 北陸」48頁)を紹介しよう。収録は宮本常一。昭和12年と17年で収録。

  【灯篭上げ 】 写真は下ケ流の花奪いである。花奪いとは何か。その源流を越前石徹白民族誌(「日本民俗誌体系 第7巻 北陸」48頁)から紹介しよう。 収録は宮本常一。昭和12年と17年で収録。 「正月六日は美濃の長滝のコガイマツリである。六日マツリとも言っている。長滝は石徹白と共に白山の南登山口で、山伏寺である。このまつりは馬鳴菩薩の供花会で、蚕をまつるまつりといわれている。キク・ボタン・サクラなどの造花をつくり、藁の台にさし、拝殿においてまつる。一丈以上の所に吊っておくのである。それをさげると人々は争ってとる。この花を養蚕の時に蚕の棚につけておくと、蚕がよいと言っている。また藁の台をとって来て、ヤドミの木をくくる縄に、その藁を入れてなっておくとよいという。ヤドミというのは蚕のまゆをつけさせるために用いた木の枝で、まぶしのなかったころに用いた。」
  【下ケ流 灯篭上げ】 下ケ流の花奪いは村人の手で灯篭を奪い合う行事です。文字通り奪われるので、年明け本番までの命ですが、手間暇かけた美しい切り絵の貼られた灯篭をいまなら、下ケ流の薬師堂にて見ることができます。 白山長滝神社に見られる花奪いの一つとみるなら、この行事も白山信仰といった修験者の置土産。修験者、木地師、芸能者といった中世の山の民が山地を往来している世界に思いを馳せるのはいかがでしょうか。 集落のなかでは花を奪うと縁起が良いとされています。しかし、類似性がある長野の花祭りや白山長滝神社の白山信仰のなかでは天蓋が死や再生の意味で重要です。この祭りも現世利益的な意味のみならず、白い灯篭に死や浄化を祈ったことがあったのかどうか。意味ももう少し聞いてみたい気がします。とりあえず、灯篭が集会所を出ていく写真をアップします。
  【灯篭上げ 3】 年末に完成した灯篭は薬師堂に下げておく。禰宜さんの般若心経が始まると間もなく、ショウガイナ踊りが始まる。 ショウガイナ ショウガイナ とゆたことないが、 薬師如来に振袖きせて奈良の大仏婿に取る 以前、取材したときには、薬師如来は女であると説明された。「豊穣の神様だよ。」歌詞からしても、恋の歌。盆踊りであるが、男性しか踊りに加わわらない。踊りや歌は25年より迫力を増している。現在の住民の力を見た思いがする。 「般若心経を読む、私の手がぶるぶると震えるのを見ませんでしたか」25年前の禰宜さんの声がよみがえってきた。 「普賢様は特におっかねえ神様だよ。見ただけでひっくり返ってしまう」「エッチの神様だ」「女性だと思うんだ。この座り方は」薬師如来や普賢菩薩は神様のように村人の信仰を集めていたが、今回も住民の方から、この仏様は嘘を暴くとの説明も受けた。 形は花奪いという白山長滝神社と同じ系統ではあるが、灯篭そのものは、精霊迎えの火祭りの一つである。 薬師如来は春日村史によれば、不破郡大滝村から迎えたということだ。春日村史によれば美濃国分尼寺に安置されていたと書いてあるが、その時代の仏像であるのなら大変なことである。本来は立像であるらしい。 実は、仏様は薬師如来の胎内にいて、かわいい昔話が残されている。子供が本尊様を運びだし、遊んでいたところ、親が叱った。しかし、仏様が叱ったのは親だった。子供たちと遊べなくなってしまったからだ。
  【灯篭上げ 番外編】  灯篭上げは白山長滝神社の花奪いの一つの形であり、形からすれば、白山修験の御師たちが広めたものに間違いないだろう。 何への信仰かと言えば、他の行事同様、1年の無病息災を祈る行事である。年替えの精霊が訪れる時期でもある。この時期、火を敬う行事は多い。特に灯篭に火の用心と書いているように、火伏の意味もある。140年ほど前に大火があったようで、その名残である。なお、火伏の神様としてまつっている愛宕山は火伏の神であるが、ともに、開山は白山神社と同じ泰澄である。 白山信仰自体、全国に五千社以上と言われる神社の信仰については、おしらさま、花祭り、被差別集落との考察でも登場する。話はそれるが、キリンが来るでも、白山の水が登場していたように、霊峰の水として敬っていた武将も少なくないだろう(そめやくんが弟を毒殺する場面)。簡単に言ってしまえば白山という霊峰への信仰。最大公約数として、病気払い、水源である水への信仰と言える。 天王の病気を治した泰澄の開山(717年)の開山の記録を見れば、病気、特に疱瘡治しの意味が強い。もちろん、開山が泰澄になっているだけで、それ以前に土着の白山への信仰があったに違いない。 開山の縁起についは、泰澄が白山の頂上に昇り、緑碧池の傍らで祈っていると、池の中から九頭竜があらわれた。さらに祈ると十一面観音になり、白山信仰の本地仏は十一面観音となっている。神様はきくりひめ、黄泉の国から帰還したイザナミに禊をすすめた神様である。黄泉がえりの信仰である。私見では、白山信仰が何かとは“白”の意味するものを忘れてはならないとの指摘多数。 写真は、泰澄た祈ったとされる白山の緑碧池。