【春日村史、森の国通信など】
春日村の歴史を語るときに引用されるものとして、村史、博物館が出していた森の国通信がある。その中で春日の歴史を古いものとする根拠に戸籍資料(702年)に出てくる、味蜂間郡春部里(春日郷)の存在がある。
脛永あたり一帯とする説が有力なのだが、美濃国神名帳にある「従一位糟河大明神」という最高の位の神社が村内にあると主張することによって、春部里は春日との説を展開することがある。
しかし、春日郷(春部里)が脛永あたりに推定されたのは定説のようだ(「岐阜県の歴史」山川出版社)。「地図から読む歴史」(足利健亮著 講談社学術文庫、256頁)では、脛永にある春日郷と隣接した伊福郷の地図を掲載している。伊吹山の由来を説明する章なのであるが、春日郷を推定した論文がおもしろそうなので読んでみた。田島公氏が、院政時代の日記の一部に「池田郡司五百木部宿祢維茂解」を発見し、田畑の分布から伊福郷を推定。伊福郷の位置を特定したことで春日郷の位置を導いている。
「池田郡司五百木部宿祢維茂解」。五百木部というように伊福部の子孫であるが、洪水等で田畑が荒廃したのだろう先祖伝来の田畑を手放す文書である。論文は「美濃国池田郡の条理」(史林、1987年)で、美濃国神明帳の従一位糟河大臣も養基神社と特定。養基神社が伊福部の氏神としている
論文が書かれたのは1987年である。春日郷がほぼ特定されながら、森の国通信(1996・3)は、春日郷を現在春日のある地域に設定している。その理由が「従一位糟河大明神」は村内にあることなのだが、「従一位糟河大明神」が村にある証拠もなく、そこから論を展開することに疑問はある。もちろん、これは、あくまで、文書から見た春日である。文書以外の春日の存在は否定しない。